熱帯林に消えた死の鉄路、泰緬鉄道の戦後75年

熱帯林に消えた死の鉄路、泰緬鉄道の戦後75年

 ミッドウェー海戦の大敗で制海権を失った日本軍は1943年10月、ビルマ(現ミャンマー)への補給路を確保するため、タイ・ノンプラドックとビルマ・タンビュザヤを結ぶ全長415㎞区間の鉄道を、1年3カ月の突貫工事で開通した。

【写真】泰緬鉄道ビルマ側のルートを歩く

 両国名の漢字表記から「泰緬(たいめん)鉄道」といわれるが、今もミャンマーやタイ、欧米では「Death Railway」(死の鉄道)の名の方が通りがよい。工事に駆り出された多数の連合軍捕虜やアジア人労働者が、熱帯病と栄養不足で犠牲になったためだ。■タイ側は観光地化

 建設現場での連合軍捕虜と日本兵を描いた映画『戦場にかける橋』と、テーマ曲「クワイ河マーチ」は世界的に知られ、線路の一部が残るタイ側では、カンチャナブリのクワイ川にかかる鉄橋が観光地と化している。

 一方のビルマ側は終戦直後、英国軍が抑留日本兵を使い、全約100㎞区間のレールをすべて撤去した。その後、ミャンマーでは現在に至るまで国軍と各地の少数民族武装勢力の内戦が続き、廃線区間の大半は内戦地域に入ってしまった。戦後75年を経て、ビルマ側区間はどうなっているのだろうか――。 タイとミャンマーを分ける山間部の国境地帯に、「スリーパゴダパス」というエリアがある。タイ側の広場には仏塔(パゴダ)が三基並び、ミャンマー側はビルマ語で「三つの仏塔」を意味するパヤトンズという町がある。国境事務所前の草地には、長さ20mほどのボロボロに錆びた2本のレールが置かれている。泰緬鉄道はこの付近を通過していた。

 ここから南東方向に、ミャンマー少数民族・モン族の武装勢力「新モン州党」(NMSP)の支配地域がある。約1000人が住む集落はNMSPの自治が営まれ、政府や国軍の影響力は及ばない。集落のモン語名は、日本語に訳すと「ニホン・イド村」という。NMSPが戦後に一帯を収めた際、日本軍が残した井戸から名付けた。 村には子どもたちが通う学校や、粗末な木のベッドを土間に並べただけの診療所の小屋もある。看板には「病院」と書かれているが、ミャンマーのほかの少数民族武装勢力の支配地域と同じく、医師はいない。医療環境の貧しさは、すべての少数民族勢力が抱える最大の悩みだ。この村には6年前も訪れた。そのときは蒸し暑い施設内に5人の看護師が働き、4人が入院していた。住民の診察代は無料だ。

 「この道は泰緬鉄道が通っていた跡だ。カンチャナブリはあっちの方だよ」――。最初の訪問時に村の関係者から不意にそう言われたが、線路の跡など見当たらなかった。今回村を再訪した際、土にめり込んでいるラワンのような木片を、彼らが指で示してくれた。「枕木の残骸だ」という。注意深く足元を見ると、小道の所々に木片が埋まっていた。

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