作曲家・加藤和彦 音楽、芸術…どの分野にも「加藤流美学」があった 昭和歌謡の職人たち・伝説のヒットメーカー列伝

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引用元:夕刊フジ
作曲家・加藤和彦 音楽、芸術…どの分野にも「加藤流美学」があった 昭和歌謡の職人たち・伝説のヒットメーカー列伝

 【昭和歌謡の職人たち 伝説のヒットメーカー列伝】

 12弦ギターの音色とアルペジオ奏法のスリーフィンガーに当時の若者はしびれた。加藤和彦さんは1971年、「あの素晴しい愛をもう一度」(作詞・北山修)を発売したが、もとはシモンズの曲を頼まれたのがきっかけ。シモンズには他の曲を提供したそうだ。

 京都の大学生時代、世界中の民謡を紹介するために「ザ・フォーク・クルセダーズ」を北山氏らと結成。67年に解散記念でアルバム「ハレンチ」を製作した。録音テープの回転数を上げて、奇妙な声を演出した「帰って来たヨッパライ」が頻繁にラジオから流れるようになると、レコード会社の目に留まりデビューの話に。加藤、北山両氏の話し合いで、プロ活動は1年という約束をする。

 奇妙な曲は68年にミリオンヒット。その後「悲しくてやりきれない」を含むアルバム「紀元貮阡年」を発表し、シングル「青年は荒野をめざす」を出すと、約束通りグループは解散した。加藤さんは「サディスティック・ミカ・バンド」を結成し独自の音楽を目指す。

 加藤さんと初めて仕事をしたのは、作詞家の安井かずみさんと結婚された頃で、先日急逝された梓みちよさんのアルバム製作だった。全編、作詞は安井さん、作曲は加藤さんという布陣。

 企画はアールデコをテーマにしたもので、全曲スタジオでアレンジしていくという時間をかけたものだった。スタジオに入ると、もうこちらから何か言える雰囲気ではなかった。これまで譜面に書かれたものを録音してきた者にとっては、手持ち無沙汰だった。

 打ち合わせを兼ねて加藤さんに都内のホテルの寿司屋に連れていってもらった。加藤さんは身に着けているのもこだわりのものばかり。カシミヤのセーターがすてきだったので「いいですね」とつい口にした。

 すると「セーター好きなんだ。僕は気が向くとセーターを買いにロンドンに行っちゃうんだ。日本にはない色があるからね」とのこと。それからアールデコやヨーロッパのバロック形式の話に広がった。話のあちこちに加藤流美学があった。

 寿司屋の後に行ったバーでソルティードッグを注文された。そのとき僕はまだその飲み物を知らず、寿司を食べたのに「塩つきドッグ」を頼んだのかと思った。それ以来、僕は飛行機に乗ったときなどは「ソルティードッグ」を頼むようになった。

 ■加藤和彦(かとう・かずひこ) 音楽家。1947年3月21日~2009年10月16日。「トノヴァン」の愛称で親しまれた。

 ■篠木雅博(しのき・まさひろ) 株式会社「パイプライン」顧問。1950年生まれ。渡辺プロダクションを経て、東芝EMI(現ユニバーサル)で制作ディレクターとして布施明、アン・ルイス、五木ひろしらを手がけた。徳間ではリュ・シウォン、Perfumeらを担当した。2017年5月、徳間ジャパンコミュニケーションズ顧問を退任し、現職。

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