1987年から「光GENJI」の中心メンバーとして活躍し、1994年に脱退した大沢樹生さん。脱退と同時にジャニーズ事務所も退所。しばらくは仕事がないことを覚悟していたというが、脱退から2カ月後、ある雑誌に“丸坊主になり「今は酒浸り」の元・光GENJI「大沢樹生」”という記事が掲載される。それは大沢さん自身も了承していた記事だったが、大きな反響を呼び、映画に主演することに。 主演映画『日本製少年』の撮影を振り返る。
◆これまでは考えられない低予算の映画で「モノ創り」の喜びを知る雑誌に記事が掲載されてから1カ月後、大沢さんは面識のない映画プロデューサーから連絡を受け、映画『日本製少年』に主演することに。
※映画『日本製少年』(1995年・及川中監督)
喧嘩(けんか)の末に父親を殺そうとして家を出た大和(大沢樹生)は、ある売春組織にいた少女に一目惚れし、自分も組織に入ってトルエンの売買を手伝うことになる。やがて二人は愛し合うようになるが、トルエンの売買でトラブルが生じ、悲劇が…。「ジャニーズを辞めた後、事務所を立ち上げることは決まっていたんですけど、まだ準備段階だったので、どうやって連絡がきたのか不思議でした。台本もまだ製本されてない段階だったので」
-最初に台本を読んだときはどう思いました?-
「面白いと思いました。2カ月前までアイドルをやっていた僕がトルエン売りを演じるというのは意表をついているじゃないですか。
それに心に闇を抱えた青年が、現実の闇に消えていくというラストシーンにも心を惹(ひ)かれて、どんな風に演じるか色々なアイデアが浮かびました」
-「光GENJI」にいたときの大沢さんのイメージとは全く違う役でしたね-
「そうですね。すぐにやりたいと思って出演を決めましたけど、実際に撮影が始まると、予想以上に大変でした。予算も1000万円あるかないかという低予算映画だったんですよ。
監督やスタッフ、キャストも手弁当だったし、ロケバスの用意もできないので、撮影中は僕が自分の車に役者を乗せて一緒に移動したりしていました。
でも、それもすごく新鮮で楽しかったですね。『ワーッ、参加している!』という感じで、出演だけじゃなくて映画作りに参加しているという感じがしましたから」
-その経験が、のちに映画監督そしてプロデューサーもということにもつながることになったのでしょうね-
「そうだと思います。それまで見たことも聞いたこともないことばかりでしたからね。
あの映画はジャニーズにいたら絶対に受けることはなかったと思う。
だって、ジャニーズにいたとき、『ライブハウスでライブをやりたい、ソロで』って言ったことがあるんだけど、『売れてない歌手みたいだからダメ』って言われて、ディナーショーをやらされましたからね(笑)」
-『日本製少年』で映画を作ることの楽しみも味わって-
「楽しかったけど、不便でしたね。チンピラに襲われてピストルで撃ってしまうシーンを撮影したときは、返り血で血まみれになって終わったのが真夜中の2時くらいだったんですよ。
全身血まみれになっているのに、予算がないからシャワーが用意されてなくて、血だらけのまま車を運転して帰って来たりとか(笑)。
ジャニーズにいたときにはホテルが用意されていたし、ケアはちゃんとしていましたから、そんなことは絶対なかったですからね。高速道路を降りるとき、料金所の人がビックリして見ていましたよ(笑)」
-かなり大変な思いをされたと思いますが、早々に映画を作る楽しみと苦労を味わったというのはいい経験でしたね-
「そうですね。東京国際映画祭をはじめ、シンガポールやチリの映画祭でも上映されましたし、演技も評価されて日本映画プロフェッショナル大賞新人奨励賞をいただいてうれしかったです」
-そのときにいずれ自分で映画製作をしようと思うように?-
「もともとアイドル雑誌でも編集者がいるんですけど、結構自分でセルフプロデュースをしてページ作りをしたりしていましたし、そういう走りだったみたいです」
-小さいときからファッションにも興味があったそうですし、クリエイティブな感覚、センスはあったのでしょうね-
「どちらかと言うと、表に出るより裏方のほうが好きです。昔からチャップリンが大好きで、20歳前後のときはチャップリンとかバスターキートンの映画を見まくっていたんですよね。すげえなあと思って。
無声(映画)ながらメッセージ性の伝わり方がすごいなあって思って。だから、いずれチャンスさえあれば、監督は経験してみたいなとは思っていました」
大沢樹生、仕事減りドン底のとき…嫌っていた“元・光GENJI”に救われる。きっかけは中野での「ある出来事」【アイドル総合】
引用元:テレ朝POST
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